日本での仕事はゼロから自分で立ち上げた―株式会社東京ビジコン 華語部門責任者 林正偉さん

台湾で日本語教師として8年間働いた後、ゲーム会社に転職してわずか8ヶ月の間に上場を経験し、その後ワーキングホリデービザを利用して日本で働き始めた林正偉さん。現在は、華語圏の企業の税務、経営コンサルティング、記帳及び経理代行を行う株式会社東京ビジコンで華語部門責任者として働いています。税務、法務、労務など各分野の専門家と提携し、多くの企業の日本進出をサポートされるようになるまでのご経験について伺いました。


――林さんは台湾の芸術大学卒業後に日本語教師として働き、30歳の時にワーキングホリデーで来日されていますが、そもそもなぜ芸術大学から日本語教師という道に進まれたのでしょうか?


林さん:大学院在学中に、日本語の家庭教師として教えていたことがきっかけです。大学で日本語学科に入学したかったのですが、母から「今後はパソコンの時代だから、コーディングを勉強しなさい」と反対され、情報収集学科に入学しました。

大学時代は演劇部に入って芝居に没頭し、今後どうすれば芝居で生きていけるかを考えた結果、芸術系の大学院に進学することにしました。しかし、私は芸術の勉強を専門的に勉強したわけではありません。

そこで、コーディングのスキルを活かせるメディアアートやデジタルアートの分野を選択し、運良く受かることができました。台北芸術大学は、台湾芸術大学とともに双璧をなす芸術大学です。私は芸術の道には進みませんでしたが、同級生たちはみんな台湾で有名な芸術家として活動しています。


――大学院時代から日本語の家庭教師をされていたということは、どこかで日本語を勉強されたのでしょうか?


林さん:いいえ。家庭教師を始めた当初は、日本語を独学で学んだ状態でした。私の祖父母は台湾が日本の植民地だった時代の教育を受けていたため、日本語ができる世代だったんです。だから、子どもの頃から家で日本語をよく耳にしていました。

また、小学校の時からファミコンにはまったのですが、当時のゲームソフトはすべて日本語でした。特に好きだったファイナルファンタジーなどのRPGは、ゲームに出てくる会話を理解しなければストーリーを進められません。そこで、ゲームをする時は横にいる祖父に「この意味は何?」と聞いていました。

すると祖父は、まず声に出して読んで、その後翻訳して教えてくれました。そのやり取りを小学3年生から中学1年生くらいまで続けていくうちに、ひらがなとカタカナが自然と読めるようになったんです。それからは、日本語を見る度にまずは読んでから、意味を推測したり暗記したりしていました。

ゲーム以外に、日本のドラマも日本語学習に役立ちましたね。初めて見たドラマは、松嶋菜々子と滝沢秀明が主演の『魔女の条件』です。阿部寛と夏川結衣が主演の『結婚できない男』も面白くて、10回以上見ましたね。

ドラマが好きすぎて収録場所に行ったこともあります。ドラマをずっと見ているうちに、日本語のルールを段々と理解できるようになりました。

ある時は動詞の変化に気づいて、たとえば「行きます」「行く」「行きません」「行かない」という法則があることを推測して、それが合っているかを日本語学習用の教材で確認していました。

大学時代は独自の日本語学習方法を確立し、大学院入学後から生徒を受け持って教えるようになりました。何人かの生徒を教えていくうちに、より専門的な教え方を学びたいと思い、土日に台北教育大学の日本語教師養成講座に通い始めるように。

ここでは塾や学校の現役日本語教師の方たちから、日本語の教授法を教えてもらえます。学校の最終試験には日本語学校の経営者が来るため、成績が良ければその場で直接スカウトされることも。私はそこで日本語塾での試用期間をもらい、大学院卒業後は日本語教師としてそのまま塾に入社しました。

▶久米島にて


――塾では何年間教えられたのでしょうか。


林さん:3年間です。その後は、台北にある約200人規模のゲーム会社に、海外戦略部の日本マーケティング担当として転職しました。転職理由は、大学卒業後は個人経営の塾での職務経験しかなかったので、もっと外の世界を見たくて、好きな分野であるゲーム関連の仕事をしようと思ったからです。

当初任された仕事内容は、台湾で制作したゲームを日本にリリースするためのマーケティング業務だったのですが、入社3ヶ月後には社長室の室長に抜擢されて、常に社長と一緒に行動するようになりました。

社長と一緒に日本に出張して会社を立ち上げたり、財務について教えてもらったり、新作ゲームのCM制作をしたりと、一気に色々な経験をさせてもらいましたね。上場後の記者会見に参加したこともありました。


――会社上場の瞬間を、社長室の室長という立場で経験できるなんてすごいですね。


林さん:社長はとても親切な人で、働く上での理念や新しい市場開拓をするために必要な考え方などを教えてもらいました。これらの経験は、現在の仕事をする上で非常に役立っています。

でも、私は8ヶ月でこの会社を退職しました。理由は、お給料は良かったのですが、そのお金を使う機会がないくらい激務だったからです。土日は社長と一緒に、上海、広州、四川、東京、台湾、シンガポールなどに飛行機で移動して、月曜に台湾に戻り、会社へ直行して会議に出るという生活を送っていました。

多くのことを勉強できる環境だったのですが、精神的にはキツイ状況でしたね。そこで、8ヶ月が経つ頃に退職して一旦休むことにしました。その時に思いついたのが、「日本でワーキングホリデーをする」というアイデアです。

当時は30歳になったばかりで、ワーキングホリデー申請の上限年齢でした。申請基準にある貯金額も、当時全くお金を使っていなかったので満たしていました。「今申請しないと、お金を使ってしまうだろうな」と思い、すぐに申請することに。約1ヶ月で申請が通り、会社を辞めて3ヶ月後には日本で暮らし始めました。

▶東京湾フェリーにて


――台湾で転職ではなく、日本に行こうと思われた理由を教えてください。


林さん:日本に遊びに行った小学生の時から、「いつか日本で暮らしたい」という夢を抱いていたので、それを叶えようと思ったからです。私が小学生の時はワーキングホリデー制度がなく、日本に住む手段は就職しかないと考えていました。でも、日本の会社で台湾人が採用されるのは難しいだろうと半分諦めていたんです。

その後、ワーキングホリデー制度ができたものの、当時は仕事があったのですぐに申請できる状況ではなく、タイミングを伺っていました。そして、30歳の時にちょうど退職したので、今がチャンスだと思って日本にとにかく行ってみることにしました。


――来日後はどのように仕事を探されたのですか?


林さん:私の叔母2人は東京と大阪に住んでいるのですが、東京に住む叔母から「仕事を見つけるにはハローワークに行きなさい」と言われたので、そこで探しました。ハローワークでは飲食店を2箇所紹介され、開業間近の個人経営の牛タン屋で採用されました。メニュー開発の段階から関わらせてもらい、小さい頃から料理が好きだったので、日本の居酒屋料理を色々学べてとても楽しかったですね。

1年間のワーキングホリデーのビザが切れる時に正式に採用すると言ってもらえたのですが、お断りしました。理由は、今後ずっと飲食業を続けていくイメージが持てなかったことと、契約書に提示された給料と手取り給料に差額が出ることを理解できなかったからです。

今はその仕組みを知っているのですが、当時は日本の給料形態について知らないことだらけでした。会社からはその説明が一切なかったため、「なんでこうなるのだろう?」という疑問を拭えず、退職に至りました。


――ワーキングホリデービザが無効になった後はどうされたのでしょうか?


林さん:就職活動に取り組んでいれば自動的にビザが有効になり、就職活動をしていない場合は離職後3ヶ月でビザが無効になりますという当時ネットで調べた情報がありました。

牛タン屋を退職後、色々な人材サイトに登録して1年間就職活動をしましたが、仕事が見つからなかったので帰国しました。それでも日本で働くチャンスを掴みたくて、友人に日本での仕事があれば紹介して欲しいと声がけをしていました。

すると、友達から上野博物館内のセレクトショップで翡翠を販売するスタッフの仕事を紹介してもらえたんです。そして、そこで働き始めると、予想以上の翡翠が売れました。そこで、九州の展示会にも派遣されて翡翠を販売し、その後、翡翠会社の社長から「日本でこんなに売れるんだったら、会社を作りたい」と言われました。

そのことを展示会で横隣の店で働いていた60代の日本人女性に相談すると、不動産で働く台湾人の知り合いを紹介してくれました。さらにその方から、「会社設立をするならこの人に相談しなさい」と紹介されたのが、現在の会社の社長でもある尾谷会計事務所の所長の奥さんでした。

彼女も台湾出身で、親身に相談にのってもらった結果、無事会社を立ち上げることができました。ようやくここで就労ビザを申請できると思ったのですが、なんと設立して約1ヶ月後に、会社を畳みたいという連絡を社長からもらいました。

私は就労ビザを取得できなくなり、台湾に帰国。翡翠の会社の社長は、他に雇ってくれそうな会社を探してくれたのですが、どこも日本では日本人を雇うという考え方でした。

ダメ元で尾谷会計事務所の所長の奥さんに相談したところ、ほとんど動いてない会社があるので、そこで新規事業を展開するという名目でビザ申請をしてみてはどうかという提案をもらったんです。

ビザ申請作業は全部自分でしなければならなかったので、手探りで資料を揃えながら進め、申請後2ヶ月半にビザを取得しました。この会社が、現在働く東京ビジコンです。2017年から勤務し、現在で3年目になります。


――ほとんど動いてない会社だったとのことですが、どのような事業をされたのでしょうか。


林さん:事業内容を自分で考えるところから始めました。まずは、会計事務所に関わる事業をできないかと思い、まず、新たな会計事務所のウェブサイトを日本語版と中国語版で作成しました。

次に、顧客を増やすために周辺の飲食店に対する宣伝を行ったのですが、毎月固定費を払って税理士にお願いしたいという人はあまりいなかったんです。そこで、台湾から顧客を集めてみようと思い、Facebookページを立ち上げました。

投稿内容は、台湾人が興味を持ちそうな日本の法務や税務知識について。Facebook広告も出し、2ヶ月ほど経った頃に初めての案件を受けました。相手は台湾でクラウドサービスを提供している上場企業で、日本で会社を作りたいという要望でした。

その後もFacebook広告と口コミで認知度が高まり、現在は約45社の会計業務を担っています。業務代行をしている会社を含むともっと多いですね。日本と仕事で関わるようになってから、会社設立や会計周りに何度も携わってきましたが、まさかそれに仕事として携わる日がくるとは思いませんでした。

▶大塚のオフィスにて


――日本と台湾の働き方で違いを感じる部分があれば教えてください。


林さん:一番違いを感じるのは服装です。台湾は日本と比べてとてもラフな雰囲気で、スーツ着るような場面がほとんどありません。しかも私の場合はゲーム会社だったので、当時は一度もスーツを着ませんでした。

また、オフィスカルチャーもかなり違います。たとえば、日本では先輩後輩の関係性や帰宅時間の気遣いがありますが、台湾では先輩と後輩の関係性はあまり気にしませんし、それぞれの仕事が終わったら帰宅して大丈夫です。

日本の職場は真面目で少し堅苦しい雰囲気で、台湾はとてもおおらかな雰囲気ですね。


――日本企業で台湾人を採用する場合に、意識するべき点とは?


林さん: 日本企業は暗黙の了解が多いですが、台湾人がそれを汲み取ることは難しいので、最初にはっきりと勤務体系や給与、休憩時間に関するルールなど、必要なことを明確化することが重要です。


――今後新たに挑戦してみたいことを教えてください。


林さん:弊社がサポートしているのは、すべて日本進出をしている台湾企業です。それぞれ同じように日本でのビジネスに邁進しているので、チャンスがあればこういった企業同士の繋がりを作りたいですね。言葉や文化のサポートだけではなく、さらなる付加価値を提供できればと思っています。

また、いつか台湾にも営業所を作って、日本進出を狙う台湾企業向けに、現地営業もできる環境にすることを目指しています。


【プロフィール】

林 正偉(Lin Cheng Wei)

株式会社東京ビジコン 華語部門責任者

台北出身。崑山科技大学情報処理学科卒。台北芸術大学デジタルアート大学院卒。約8年間台湾で日本語教師として勤務。その後、約200人規模のゲーム会社に海外戦略部日本マーケティング担当者として務め、上場補佐やPRを兼任。30歳で退職し、ワーキングホリデービザで来日。飲食店で就労後、一度台湾に帰国し、2017年に再来日して株式会社東京ビジコンに就職。日本語能力やマーケティング、財務の経験を生かして事業を一から立ち上げ、現在は華語部門責任者として華語圏法人の日本進出サポートを行う。

※ お問い合せの際は、東京ビジコンのFacebookページまでご連絡ください。


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